楠木正成数百騎で数万に対抗する ~赤坂城の戦い~
「楠木正成」ときけば「武士」としてのイメージが強いと思いますが…
実は、もともとは、正式な武士ではありません。
河内・和泉を本拠地とする「悪党」であったという説が有力です。
「悪党」とは?
鎌倉幕府の傘下に属さない野党集団です。
その多くは野伏やあぶれ者で、強盗、ばくち、押買いなどを常習としており、幕府には手におえぬ存在だったよう。
おそらく、楠木正成はそのようなことはしていなかったと思われますが、そういった「あぶれ者たち」をまとめ上げたリーダーでした。
なぜ、そんな男が歴史を変える程の人物になったのか?
後醍醐天皇の引き立てによって、鎌倉幕府打倒計画に加わったことから、すべては始まります。
『太平記』には後醍醐天皇と楠木正成の出会いについて以下のようにあります。
「ある日、後醍醐天皇がまどろんでいると、
夢の中に宮殿の庭先に大きな樹木があらわれた。
その樹木の下には百人の神官が並んでいたが
南側の玉座(ぎょくざ・・天皇が座るべき場所)には誰もいなかった。
不思議にに思っていると童子が現れて天皇を玉座に招いた。
その瞬間に、後醍醐天皇は目覚めます。
『木の南の玉座か…。木の南といえば、楠か…。
何か思い当たることがある者はいるか?』と尋ねると、
ある者が『河内国金剛山の西麓に楠木正成という者がおります』と答えたため、
後醍醐天皇は楠木正成を呼び寄せた」
…とのこと。
しかし、これは、明らかに創作であるという説が強いです。
なぜ、二人が出会ったのかハッキリしていないため、このような創作が生まれました。
有能で有名だったため紹介によって出会ったという説が有力。
時は、1331年。力を弱めていく鎌倉幕府を打倒するため、後醍醐天皇は挙兵します。
ちなみに、一度目はバレて失敗。
二度目の打倒幕府のための挙兵に呼応したのが楠木正成でした。
笠置山に陣をおく後醍醐天皇に呼応して、正成は河内赤坂に城を築きます。
集めた兵はなんと悪党わずか500人。
これに対し幕府は、数万(一説では20~30万人)にも及ぶ大軍を派遣します。
500人 VS 数万人(一説では20~30万人)
です。
さらに、相手は正式な武士なので甲冑や刀もそれなりに良いものをもっていますが、
正成軍はほとんど戦ったことも無いような農民上がりの地侍。中には裸の者もいたとか。
勝てるわけ、ありません。
しかし、正成は幕府軍相手に、“なんでもあり”のゲリラ戦を展開。
城壁の外から攻める幕府軍に対して、城の中から、岩・大木・ウ○コなどを投げ、熱湯をかけて、時に藁人形で相手をあざむきます。
できる限りの、数々の奇想天外な戦術を繰り出し続けました。
幕府軍も「こりゃ、手に負えんわ…」と判断して、
確実に勝てる手段として、城を囲んでの兵糧攻めに切り替えます。
結果、正成軍は20日で兵糧は尽きてしまいます。
そして、その日、正成は城に火を放ち、自害したと見せかけるのです。
普通は城を焼いたら降参の印で、自害するものなので、幕府軍の多くの武士は騙されました。
楠木正成は、あきらめていませんでした。
そのスキをついて、正成は城から逃げ出すことに成功したのです。
しかし、幕府軍の武士・足利尊氏だけは、正成はすでに逃去ったと見抜いていました。
「この程度で、死ぬ男ではない…」
つづく。
◆ 今回のポイントその1
実力が無いときはゲリラ戦でいくしかない。
◆ 今回のポイントその2
使えるモノは全て使う。
◆ 今回のポイントその3
絶対に、最後まで、あきらめない。